Blog 再開

2年ほど闘病生活をし、
その間にいろいろ不動産など処分しまくりました。
断捨離ですね。

 
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六甲山

森のなかの小さな写真美術館。 六甲山牧場から徒歩12分(私の歩きで) バス停は六甲山牧場 標高が777m 気温は札幌とほぼ同じだそうです。 真夏でも最高でも25、6度で、夜は20度近くまで下がります。 まだ名称も決めてないが とりあえずは、この夏は準備で忙しくなりそうだ。 もちろん、ワークショップも考えて暗室も完備いたします。
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天才赤ちゃん

17、8年前に原宿で知り合って、その後ずっと僕のモデル兼アシスタントをしてくれている女性がいる。 知り合ったころはまだ女子高生だった彼女も、いまや3人の母親になって この8月に第4子が産まれる。 僕が神戸に戻ってきたころ、彼女の夫が関空の配属になった。 冗談のつもりで、大阪よりも神戸に住めば?と言ったのがきっかけで神戸に住むことになって いまは家族ぐるみベタベタに付き合っている。 3人とも頭のいい子たちで、3番目の2才の女の子(ちなみに全員女の子です)が 異常なぐら漢字に興味をもっていて、私の家に来るやすぐに父親の書斎に入って ずっと本と向き合って出てこないのである。 なに読んでるの?と聞いたら「春秋」と答えた。 私にも読めない難解な書物である。 2才で一生懸命勉強している姿をみて、教えられるとこがいっぱいある。 無邪気に遊ぶ姿をみてほっとする時もあるんだが。。。。 kotomi.jpg
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自家製ジンジャエール

夕べから喉が痛くなって、今朝起きたら声が出なくなっていた。 熱をはかったら38度ちかくあった。 これはまずいですね〜〜〜 今日はツレに仕事を任せて家で寝てることにした。 ちょうど新ショウガが台所にあったので、それを摺り下ろして黒糖と水をくわえて火にかけた。 小さい頃から風邪をひくと、祖母がつくってくれた家庭の風邪薬である。 イースト菌を少し加えて、10時間近く放っておくと自然の炭酸水、ジンジャエールもできあがります。 真夏はこれを冷蔵庫に冷やして暗室でガンガン飲んでいる。 ちょっと泡盛を入れるとまた旨いんだよ。
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六甲山

神戸市内の我が家から車で20分で六甲山頂につく。 近くには六甲山牧場があり、避暑地として別荘も少なくない。 しかし国立公園に指定されてから規制がかかって、新しい別荘が建てられなくなった。 バブルがはじけたあと、会社の保養所で使っていた施設は手放されて、六甲山はいまや閑古鳥になってしまった。 六甲山オリエンタルホテルも閉鎖された。 幸い六甲山ホテルはいまも営業しており、近くの摩耶山のホテルも存続している。 しかし、訪れる人が年々減少している。 国立公園になったおかげで、山頂はさびれてしまったのである。 別荘を改修するにもいろいろと規制があって、山ほどの書類が必要となる。 山頂で暮らしている友人がいて、すぐ近くの別荘が格安で売りに出しているので君も来ないか?と誘われている。確かにびっくりするような価格だ。400坪の庭と地下室つきの平屋だ。 国立公園内だけど、そこの一角だけがなぜか所有権がある。 悩むところである。標高は767m。真夏でも長袖がいるらしい。
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服をつくる

ずいぶん前に台湾で買った服が自分に合っていて 最近はそればっかり着ている。 素材はリネンで、長袖だが真夏でも暑くなくてかえって気持ちがいい。 台湾にいる友人に、同じ服を探してもらったのだが見つからない。 少数民族っぽい簡素なデザインだが、身体にすごくフィットする。 そんなに気に入ってたらは自分でつくりなさい! と、言われて 服づくりに初挑戦してます。 どうせつくるんだから、オーガニックコットンとリネンで2着つくることにした。 ツレにはミシンがけだけ教えてもらい あとはネットでしらべたり、本屋で立ち読みしたりの独学である。 最初は失敗もあるので安いコットン生地でコトコトはじめた。 夜の9時から1時間ぐらいが服づくりの時間にあてている。 いつ、できることやら。
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読書

僕は本の虫だ。 と、いうのも小さい頃から両親が本に囲まれての生活だったので 自然とそういう習慣になってしまった。 小学校のときはほとんど中国語の本ばかり読まされた。 三字経からはじまり、論語、楚辞、漢詩など とにかく書物というのは自分にとってかけがえのない宝物である。 20才頃から文字の書物のほかに写真集もあつめはじめた。 写真集は観るのではなく、僕は読むことにしている。 写真から写真家の心を読むことで感動をおぼえる。
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金環日食

sun.jpg 写真を教えている子が和歌山の串本にまで行って撮ってきた金環日食の写真だ。 朝、神戸で観たものとは少しちがう。 僕が撮った金環日食はかなり月の軌道が下辺に寄っていて完全ではなかった。 ポルトガルでワインを飲みながら地元の人たちと部分日食をみた記憶がフト蘇ってきた。 フリーのカメラマンになったばかりで、不安をいっぱいかかえていた。 これからの自分の人生に太陽と月に願いをかけたのである。 一直線になるときに、心に思うことが必ず叶うと地元の漁師さんに教わったからだ。 漁師さんたちは、日々の少しばかりの幸せを祈っていた。
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同窓会

18才のときに神戸を離れて37年。両親の病気と介護で戻ってきたのが3年前。 幼い頃の神戸の街と、いまの街はまったく雰囲気がちがうのに戸惑っている。 国際都市でエキゾチックなしずかな雰囲気が昔はあった。 いまは、なんだか街の存在があやふやで、情けなく悲しい思いがする。 中学を卒業して、懐かしい顔がよみがえってきた。 楽しく歓談し、酒を酌み交わして昔話に花が咲く。おとなしく静かなはずの幼なじみが、よく喋って場を賑わしていたことに驚きを感じた。 ただ残念なことに、僕と仲が良かった女性の姿はなく、ずいぶん前に病気で亡くなったことを知らされた。 東京の大学に行くまえに「必ず迎えにくる」と言った言葉が蘇る。 楽しくもあり、哀しみも多かった会であった。 彼女にもらった青白玉の龍は、いまもお守り代わりに身につけている。
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写真が好きだ(3)

スティーグリッツは裕福なドイツ系ユダヤ人移民の家庭に生まれます。幼少時代を ニューヨークで過ごしますが、1882年に父親の勧めでドイツのベルリンに機械学を勉強しに留学します。ベルリンで単玉カメラを購入し写真を撮影するようになります。 1887年にロンドンの"アマチュア・フォトグラファー"誌のコンテストでP.H.エマーソンに認められ賞を受けています。 1890年にニューヨークに戻り、数年間写真製版の会社に勤めた後に当時まだ記録するメディアだあった写真をアートとして広めることに専念するようになります。ヨーロッパで主流だった写真表現の啓蒙を志したのです。 当時としては画期的なハンドカメラを使用して名作「ターミナル,1892」などを撮影しています。 写真専門誌の編集者を勤めながら、1897年に自らが結成したカメラクラブ・オブ・ニューヨークの機関誌 "Camera Note"を創刊します。1902年にはフォト・セセッションを設立し、写真独自の芸術性を提唱し、有名な季刊誌"カメラ・ワーク"を創刊します。 1905年にはスタイケンが発案したと言われるフォト・セセッション作品を展示する写真専門ギャラリー"291"をニューヨークの五番街の291番地にオープンします。世界最初の写真ギャラリーのひとつである"291"では写真、欧州のモダンアート、前衛作家の作品を展示しました。 ちなみに彼は若いジョージア・オキーフと1908年にこの場所で知り合っています。2人は1924年に結婚しています。 スティーグリッツはソフト・フォーカスがかかった絵画風の写真を展示したり出版していましたが彼の写真自体は手を加えないストレート写真でした。1892年に初めてニューヨーク市街を撮影したときは絵画的なソフトな雰囲気を出すためにあえて雨や霧の日に撮影を行なっていたことが知られています。 その後彼は写真を絵画の模倣から解放し新しい方向に向けることを考えるようになります。 アートはすべて作家の人生における哲学と同じであるべきで写真表現の方法として、手を加えないストレート写真こそが個人表現の最適だ、と主張するようになります。彼の業績は絵画的な傾向の強かった欧州中心の19世紀の写真から、20世紀の新しい写真の方向性を示したことにあります。 アンセル・アダムス、ポール・ストランド、エドワード・ウェストンらのストレート写真を支持し、それは1920年〜1960年代のアート写真の主流の写真表現となりました。 写真イメージ、出版、ギャラリー運営、著述とスティーグリッツが伝統のない米国アート界で写真を通しての独自の文化表現の確立に与えた影響は計り知れません。業績と合間って、写真に対する情熱と妥協しない姿勢、そしてカリスマ的な個性によりスティーグリッツはアート写真界の伝説の人物となっています。
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